近代俳句の巨匠・高濱虚子近代俳句の巨匠・高濱虚子

近代俳句の巨匠・高濱虚子
 高濱虚子(明治7年(1874)~昭和34年(1959))は、明治から昭和にかけて活躍した伊予松山(現愛媛県)生まれの俳人です。近代俳句の礎を築いた正岡子規に兄事。子規の没後は「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱し、俳句の伝統を守る守旧派として活躍しました。
 小諸には太平洋戦争の戦火を逃れるため、昭和19年9月~昭和22年10月に疎開。
 昭和29年に文化勲章を受章。昭和34年神奈川県鎌倉市で没しました。近代俳句の巨匠であり、自然を題材にした作品を数多く残しました。

高濱虚子の生涯

 明治7(1874)年、伊予松山(現愛媛県)に池内政忠の四男として生まれました。本名は清。9歳の時、祖母の高濱姓を継ぎました。
 明治21(1888)年、中学に入学し、親友となる河東碧梧桐と知り合います。碧梧桐の紹介で、郷土の先輩でもあり近代俳句の礎を築いたといわれる正岡子規と文通を始め、明治24(1891)年に松山に帰省していた子規と会い、俳句を始め、虚子の号を授かりました。
 京都、仙台と遊学したのち、上京した虚子は、ともに俳句を学んだ親友・碧梧桐とともに子規門下の双璧として活躍をしました。
 明治30(1897)年、碧梧桐の婚約者だった大畠いとと結婚。子規の友人・柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ホトトギス』を引き継ぎ、俳句だけではなく小説も加えるなど、俳句中心誌だった『ホトトギス』を俳句文芸誌として生まれ変わらせました。(※『ホトトギス』は明治の創刊から令和の時代まで刊行されています。)

 明治35(1902)年、子規が没すると、虚子は小説の創作に移行していき俳句から離れますが、碧梧桐が俳句の伝統にとらわれない新傾向俳句を提唱すると、それに対抗するために俳壇に復帰。俳句の伝統を守る「守旧派」を宣言しました。虚子は伝統的な五七五調の有季定型を重視し、「客観写生」を主張。そして独自の俳句理論「花鳥諷詠」を提唱しました。「花鳥諷詠」とは虚子の造語であり、自然(花鳥)や人の様子を写し、調子を調えて詠むという俳句の手法で、以降の俳句文芸誌『ホトトギス』の理念ともなりました。
 後進の育成にも尽力し、高野素十、水原秋桜子らを育て、俳諧の中心的人物として影響力を持つようになりました。昭和15(1940)年、66歳の時には日本俳句作家協会の会長を務めています。
 家庭では、明治43(1910)年に一家で鎌倉に転居しており、没年まで鎌倉に住みました。
 昭和29年には文化勲章を受章。昭和34年、鎌倉で85歳の生涯を閉じました。

小諸時代(昭和19(1944)年~昭和22(1947)年)

 昭和19(1944)年、太平洋戦争の戦火を逃れるため、五女の高木晴子一家と小諸へ疎開しました。小諸では五女の晴子と交流のあった小山栄一の援助のもと、精力的に俳句活動を行い、句会を開催しました。また、全国各地のホトトギス句会にも積極的に赴き、多くの俳人や門人の指導に当たりました。小諸時代はひたすら俳句に没頭できた時代でもありました。そんな中で、小諸の自然や風土を詠んだ「小諸百句」、小諸での疎開生活の様子をまとめた「小諸雑記」、小説「虹」が生み出されました。

虚子庵

虚子庵
小諸時代に住んでいた家は、「虚子庵」として小諸市が所有し、「縁側散歩」を楽しんだ縁側も全て当時のままの姿で移築保存されています。現在、一般公開されています。

虚子の散歩道

虚子の散歩道
虚子庵の北側は虚子が気に入っていた散歩道でした。散歩道を歩くと往時の虚子を偲ぶことができます。句碑めぐりとともに楽しめます。
散歩道のPDFマップ


略歴

1874年(明治7年) 愛媛県松山市に旧松山藩士・池内家の四男として生まれる。9歳の時に祖母方の高濱姓を継ぐ。
1888年(明治21年) 伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学し、1歳年上の河東碧梧桐と知り合う。
1891年(明治24年) 河東碧梧桐の紹介で郷土の先輩・正岡子規と知り合い俳句を始め、虚子の号を受ける。
1893年(明治26年) 碧梧桐とともに京都の第三高等中学校(現在の京都大学)に進学。
1894年(明治27年) 碧梧桐とともに仙台の第二高等学校(現在の東北大学)に転入するも中退。上京し放蕩生活を送る。
1897年(明治30年) 大畠いとと結婚。子規の友人である柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加。
1898年(明治31年) 松山の柳原極堂より「ほとゝぎす」を引き継ぎ東京に移し、発行人となる。俳句中心誌であったが、和歌や散文などを掲載し、俳句文芸誌として再出発する。夏目漱石の小説「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」を掲載したことで有名。
1902年(明治35年) 兄事していた正岡子規が亡くなり、俳句の創作から小説の執筆に移行していく。
1910年(明治43年) 神奈川県鎌倉市に移住する。没後まで鎌倉に住む。
1913年(大正2年) 碧梧桐が唱えた「新傾向俳句」に対抗するために俳壇に復帰。
俳句の伝統を守る「守旧派」として、碧梧桐と対立。
1928年(昭和3年) 独自の俳句理論「花鳥諷詠」を提唱。客観写生を主張。
1937年(昭和12年) 芸術院の創設に伴い会員となる。
1940年(昭和15年) 日本俳句作家協会の会長となる。
1944年(昭和19年)9月 太平洋戦争の戦火を避けて、5女の家族とともに小諸へ疎開する。
1947年(昭和22年)10月 小諸での疎開生活を終え、鎌倉へ戻る。
1954年(昭和29年) 文化勲章を受章。
1959年(昭和34年) 鎌倉の自宅で死去する。


市立小諸高濱虚子記念館
市立小諸高濱虚子記念館

虚子の偉業を顕彰するとともに小諸時代の貴重な作品・資料を保存展示する市立の記念館です。虚子の作品を読み親しむ多くの俳句愛好者からの寄付を受けて建設され、平成12年3月に開館しました。

■住所 〒384-0006 長野県小諸市与良町二丁目3番24号
■電話 0267-26-3010
■開館時間 9:00~17:00
■休館日 水曜日(祝日にあたる時は木曜日)、12月~3月末
■入館料 一般300円、小中学生200円
■交通 小諸駅より徒歩15分程。
■ホームページ 小諸高濱虚子記念館(概要)/小諸市オフィシャルサイト (komoro.lg.jp)

小諸高濱虚子記念館パンフレット

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