平安時代末期
「平家物語」にも登場する源氏・木曽義仲に仕えた武将・小室太郎光兼が、宇当坂に館を構えたのが小諸の城の起こりです。
戦国時代
武田信玄の命を受けた重臣が縄張りをし、城郭を整備したと伝わっています。
この頃、小諸城は、別名として酔月城とも呼ばれていました。
武田氏が滅びると、小諸城は織田信長の将・滝川一益の持城となりましたが、信長が倒れると、北条氏が滝川勢を(蹴散らして)小諸へ侵攻しました。
この後、しばらく徳川、北条、上杉に真田も加わり争奪戦が展開、やがて豊臣秀吉の仲裁もあり徳川氏の所領となりました。
安土桃山時代
その後、豊臣秀吉が、天正18年(1590年)小田原(征伐)で北条氏を(討ち取り)、天下を統一すると、徳川家康が関東に転封され、仙石秀久が小諸五万石の大名として小諸城主となります。
秀久は、秀吉の許しを得て、本丸に桐紋の金箔押瓦を使った三層の天守閣を備えます。
現在では当時築かれた天守台に「野面積み(のづらづみ)」の石垣だけが残っています。
慶長5年(1600年)「関ヶ原の戦い」に中山道を進んだ徳川秀忠の東軍が小諸城に入ります。
この時、西軍・真田氏の上田城を攻めた「第二次上田合戦」では、秀忠軍が苦戦の末に敗退天下分け目の合戦だった関ヶ原にも遅参してしまうという逸話で知られています。
江戸時代
江戸時代になると、小諸藩の初代藩主となった仙石秀久は、現在もその姿を残す大手門や石垣などの城郭整備をはじめ、小諸の城下町や街道の整備をおこないました。
仙石氏が上田藩(長野県上田市)に移封されるまでの32年の間に現在の小諸の町の原形が築かれました。
その後、小諸城の城主は徳川氏・松平氏などに変わり、元禄15年(1702年)与板藩(新潟県長岡市)から移封された牧野氏が十代・170年に渡り藩主を勤めました。
明治時代
明治時代になり、廃藩置県で役割を終えた小諸城には「懐古神社」を祀り、三の門より城内を「懐古園」と呼ぶようになりました。