小諸城三之門(重要文化財)

慶長期から元和期(1596年~1624年)に、創建されました。寛保二年(1742)に千曲川流域を襲った「戌の満水(いぬのまんすい)」のとき、城下を流れる中沢川などの土石流により城下町の一部と共に流出しました。

その後、明和2~3年(1765~1766年)に再建されました。寄棟造りの二層の渡り矢倉門(多聞矢倉門)で、石垣も切込みはぎの石積みによって再建、築かれています。

あの屋根が三の門という門です。ここより低い場所にある。このお城は先に進めば進むほど低くなる、という珍しいお城。普通は行けば行くほど高くなるが、このお城は行けば行くほど低くなる、という発想逆転のお城。低くなるから弱いお城か、というと全然そうではない。さっそく行ってみましょう。

ムーディーな感じのライトですね。ワインの色に合わせている。
ここもお城の敷地の一部ですが、線路が通った為・・・
トンネルを抜けると門がありました。

よく写真で紹介される有名な重要文化財の三の門。元々は瓦じゃなかったんですかね?そうですね、入母屋造り(いりもやづくり)で、こけらぶき、植物で屋根をふいていた。江戸時代の後期に1742年に戌の満水という大きな土石流の災害がありまして、門が丸ごと流されてしまった。その後再建した。石垣も非常に新しい形の積み方をしている。袖石垣、修復中です。

今どこにいるか確認します。模型の先のここに大手門があってずっと歩いて来て、この門です。ついに模型の中に進入しました。この門から先が谷がいく筋か分かれていて、この谷によってつくられた三角形のエリアにお城が順々にあります。高さですが、今いる所がお城の中で一番高い所。ここから順々に下がって行く、天守があったであろうという所が一番低い所になる。だから穴城と言われるゆえんであります。

石垣は工事中ですが、今回はスペシャルな事に石垣の中を見せていただけるたまたま良いタイミングです。普通だと修理で残念かと思うが、実は、この配信では中に入れていただける。石垣の中は一体どうなっているのでしょうか?見に行きましょう。
石垣をなおして下さっている皆さんです。有名な長野の北野建設さんです。文化財の専門家の方です。よろしくお願いします。

楽しみですね、どうなってんのかしら?石垣って一部の皆さんの間ではピラミッドみたいに全部石かと思っていらっしゃる方がいますが、そうではなくて基本、中は土です。土の表面を色んな工夫をして石で固めていくのが石垣です。今は中の土が見えている状態ですね。普通は見られない状況です。

これを見て頂くとわかる通り、土があって、土のそばに細かい小さな石がある。
栗石(ぐりいし)と言う。内側に小さい栗石があり(排水の為の)、その外側に大きな石、築き石(つきいし))がある。ですから、石垣というのは外側に見えている大きな石だけではなくて、その背後の栗石、その後ろにある背面土、この三つが組み合わさって、日本の石垣というのが出来ている。その断面が今日は特別公開中です。

奥に行ってみましょう。石垣が面白い事になっています。石垣の下の所の段が違っているように見えるのですが、どういう事なのでしょう?
最初掘っていた時は、・・・さっき見た正面の石の積み方と全然違う。こっちはいわゆる野面積(のづらづみ)と言われる部分で、ほとんど石を加工せずそのまま積んでいく。横長に積んでいっている。
今見える三の門の石垣と比べて、ひとつ前の古い時代の石垣じゃないか、とみています。隅角部の方にすいつけられていないので、・・・こっちから上が新しい時代の

二段になっているのは時代が違う。元々この上には三の門の鉄砲狭間がついたそでべえ?があったが、それごと崩れてしまった。その塀の角度は上の角度です、しかも積み方も古い時代。前の時代の石垣の根石じゃないかとみています。積み直す時に、角度も変わってしまった。
戌の満水の時に、三の門だけではなくて、両脇の袖も石垣も崩れた。

ですから、二段になっている所から角度も積み方も変わっている、という事が掘ってみてはじめてわかった。今のよりも昔はもう少しが角度も違って、鈍角にひらいた石垣があって、野面積というんですかね、・・・石垣があって、その後改修されて今の上に積み重なっている石垣の元になっているところがある。
頑丈な根石だから、そのまま使えばいいやで、戌の満水後に積む時に、根石として利用していた。新しい石の基礎として使ってしまったという事です。だから古い物が残ったという事です。
江戸時代の半ばごろに大きな改修があった。中間点になっていると思います。

石垣の断面が面白い。これをご覧いただきますと、石垣って正面から見えている奥はどうなっているのだろうか?考えると夜眠れなくなるが、今日は見えているので良く寝られる。

控え(奥行)の長さが割合短い。これは積まれた時代から考えると、控え(奥行)の長い石になっていてもおかしくないが、元の石垣に使っていた石を積みなおしをしているので、こういう控えの短い石もたくさん入っている。江戸のはじめか戦国の後半ごろ、その頃は控えの短い石垣も多い。段々江戸が進んでいくと、控えの長い石垣に変わっていく、という変化がある。控えの短い石は貴重。

後ろの栗石なんかも自然の礫(れき)が角礫(かくれき)みたいなものも入っているし、河原の石、丸い石も入っていて、色んな所から石を持ってきている事がわかってくる。石垣の中がこれだけ丁寧に見られるとは驚きですね。

後ろの石は何の役目があるのですか?
この栗石なんですが、一つには雨が降った時に、石の層をつくっておく事で、すみやかに排水をするので石垣が崩れるのを防ぐ役割。もう一つは、地震の時なんですが、後ろに背面土があって、この栗石がなくて前に大きな石を積むだけでも、一見、石垣の形をつくることもできるのですが、地震を受けるとそれぞれ揺れ方が違うので、背後の土と揺れ方の違う石が直接当たってしまうので、あっという間に石垣が崩れてしまう。
ところが、間に手前の大きな石と背後の土をうまく接続して、うまく揺れを干渉してくれる、栗石の層が入っていることによって、それぞれ振動の仕方が違うのですが、お互いがお互いに影響を与えずに石垣が地震で大崩れしない。実は栗石というのは長い間安定して石垣が存在する、非常に大きな役割を果たしていた、という事になります。
栗石は排水や地震対策など色んな役割を果たしていた。

後ろの土壌は関係ないのですか?
後ろの土壌も大きく関係します。元々の地盤の安定したものなのか、人工の盛り土なのか、そこでも変わってきますし、栗石の幅をどれぐらい、つくっておくか、というのも石垣の安定度に関わしますし、さらには、どれぐらいの石の詰め方をしているかという事も安定性に関わってくる。
今見ています、これは調査中ですから、表面、土が、栗石の中にもかなり土が見えますが、本来であれば、ここはこういう砂や土は入っていなくて石だけがつまっている。それが、水を早く流すフィルターのような役割をしている。土が入ってくると排水がうまくいかなくて、石垣の変形などにつながっていくので、時々こういった修理をしなければならない、ということもよくわかる。

土壌にあわせて、栗石のやり方の工夫が必要だった。
今ですと、背面側から土が栗石の石の方に入って来ないように人工的な不織布のようなものを間に一枚入れて、土が入って来ないようにする、とか色々な修理の方法というのが使われています。
ここが綺麗になるのが楽しみですね。では、降ります。中々こういう機会がないので今日は良い物を見せて頂きました。素晴らしいですね。

配信だからご覧いただける発掘調査をしておられる、まさに石垣の内部構造がこんな風にわかってきました、というところをご覧いただけた訳ですから、きちんと修理をすると崩れませんから、何百年も見ることができない。ありがとうございました。すごい幸せでした。

慶長の石垣が根石として残っていたというのはすごいことです。石の大きさ、積み方、あれを分析していくと、城内の基準になる。大成果ですね。あれが物差しになる。素晴らしいです。

(「千田先生と行く!日本最強で不滅の城LIVE」第4回長野県小諸市 小諸城 より)