4月20日・ジャムの日は、小諸から・・・4月20日・ジャムの日は、小諸から・・・

 4月20日は「ジャムの日」ですが、これは小諸と深い関係があります。
 明治43年のこの日、長野県北佐久郡森山村(現小諸市森山)の二代目・塩川伊一郎氏が、「苺ジャム」を明治天皇に献納しました。そして、この「苺ジャム」の製造技術が日本のジャム産業の礎になったということで、日本ジャム工業組合が「ジャムの日」を制定しました。

4月20日ジャムの日のロゴ
4月20日ジャムの日のロゴ

もも栽培から始まった・・・もも栽培から始まった・・・

 日本のジャム産業の先駆者・塩川伊一郎。その始まりは桃の栽培からでした。
初代・塩川伊一郎と二代目となる勝太は、冷害などで不作が続き困窮する農民の生活を救いたいという思いから、小諸義塾を開校した木村熊二に教えを乞い、明治29年に木村のすすめで森山村(現小諸市森山)で桃の栽培を始めました。

 桃は小諸の冷涼な気候でよく育ち、肥料や病害虫の防除などを工夫し、栽培は軌道に乗ります。ところが、どんどん生産が増えてくると、流通や過剰品の問題が出てきました。その解決策として、木村熊二の勧めにより、缶詰の製造を始めるのです。

缶詰工場の封缶作業
缶詰工場の封缶作業 (塩川哲郎氏所蔵)

イチゴジャムの缶詰めイチゴジャムの缶詰め

 桃は夏の短期間で収穫で終わってしまうため、缶詰工場の稼働も短期間でした。何か良いものはないかと探し、イチゴに目を付けます。イチゴジャムを作り、これを缶詰にしました。明治37年塩川缶詰合名会社を設立、本格的にイチゴジャム製造も始めます。イチゴは農家に委託して栽培してもらい、村のこどもたちにガクを摘み取ってもらうなど、村ぐるみでイチゴジャム製造が支えられ、農家の収入も増えました。

いちご畑の収穫作業
いちご畑の収穫作業 (塩川哲郎氏所蔵)
子どもたちのイチゴのヘタとり作業
子どもたちのイチゴのヘタとり作業 (塩川哲郎氏所蔵)
桃缶と苺ジャムの新聞広告
桃缶と苺ジャムの新聞広告 (塩川哲郎氏所蔵)
 その後、イチゴジャムは品評会や博覧会で優秀な成績を収め、全国にその名を知られるようになりました。そして、いよいよ明治43年4月20日、明治天皇に「苺ジャム四箱」を献上、その後は、明治屋との特約販売や、帝国ホテルに直接納品するなど、小諸のイチゴジャムと塩川伊一郎の名声は確固たるものとなりました。
 大正期には、イチゴジャムの増産を考え、兵庫県鳴尾市でイチゴ栽培を拡大、ここで作られたイチゴをボイルして小諸の工場に送り缶詰にしました。三岡村でのイチゴ栽培も、より栽培に適した御牧ケ原地区へと移りました。御牧ケ原で生産されたイチゴのジャムは品質がよく、その8割が海軍用に納入され海軍御用達として重宝されていたようです。
 二代目・塩川伊一郎亡き後も、妻・すゐが会社を支えていましたが、太平洋戦争により長野県下の缶詰会社は統合され、三岡の工場も閉鎖しました。統合された工場は戦後も復興されることはありませんでしたが、塩川伊一郎父子が生涯をかけた事業は、小諸の産業を切り開き、日本のジャム産業の礎を築きました。

いちご生産発祥の地『小諸』 │ 御牧いちごいちご生産発祥の地『小諸』 │ いちごの祖先と言われる『御牧いちご』

いちご平バス停
いちご平バス停
 

 小諸市の南側、千曲川より左岸に広がる台地の上、「御牧ヶ原」には、「いちご平」の地名が残ります。「いちご平」には昔から野生のいちごがあったそうで、その起源は平安時代からという説もあるようです。
 御牧ケ原一帯で作られた「御牧いちご」と呼ばれる品種は、室町時代から栽培が続けられていたと言われています。冷涼で日照時間も長く降水量の少ない小諸の気候はいちご栽培に適した風土であり、「御牧いちご」の栽培は大正から昭和にかけて最も盛んになりました。
 昭和11年に長野県立農事試験場が、新品種育成のための品種の選抜を行いました。御牧ケ原地区の中から2系統を選び、他品種と比較したところ、この2系統に勝る品種はなく、それぞれ「御牧ケ原一号」「御牧ケ原二号」と命名され、栽培が広がっていきました。この2つは、現在流通しているイチゴの原種だと言われています。
 昭和30年代、高度成長期に入ると「御牧いちご」も姿を消していきました。しかし、近年この消えたと思われた「御牧いちご」は、長い年月をかけて見つけ出され小諸に戻り、現在「布引いちご園」で栽培保存されています。

御牧いちご
御牧いちご(布引いちご園)
【出 典】
『塩川伊一郎評伝』 著者:小林 收/発行所:(有)龍鳳書房
『草苺の歴史』 著(訳)者:川里 宏/印刷所:小林印刷(株)
『地域を照らす伝統作物 -信州の伝統野菜・穀物と山の幸-』 著者:大井 美知男・市川 健夫/発行所:川辺書林